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Cry for the Moon

1



 子供の頃から何度も繰り返し見ている夢がある。
 目を覚ますまでぼくはまたその夢を見ていた。
 そこは昼なのか夜なのかも分からない。暗い不吉な影をおとす雲が空全体を覆っている。空気はその原子の中になにか禍々しいものを秘めて緊張している。              
 そしてぼくは、世界がこれから闇に突き落とされる事を“知っている”。
 息苦しく、足が震える。だが、逃げ出す事もできずぼくはその瞬間を待っている―――首にロープを懸けられ足もとの板が今にも落とされようとしている死刑囚のように。
 突然、大音響とともに空から真っ黒な何かがやってくる。ビルを破壊し、道路を捻じ曲げ、人々を容赦なく押し潰しながらどんどん近付いてくる。
 やめてくれ!
 叫ぼうとしても喉の奥が凍りついてしまっていた。どこか瓦礫の下で、潰された子供の泣き声がする。
 痛い、痛い、助けて…
 ちぎれた手足が、首が、目の前を転がる。
 助けて!……
 苦痛と、恐怖と、果てしなき虚空。そしてその虚空に満ち、そこから降りかかる死。
 どうして? なぜ、こんなむごいことを。
 世界は砕け散り、その破片が渦を巻いて暗い虚空に舞い上がっていく。バキバキと悪意に満ちた音を響かせながら。
 凶暴な牙をむき出しにした闇に引き裂かれ、人々は叫ぶ。呻き、泣きわめく。
           、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、
 どうして? なぜ? 殺されなければならないような悪いことは、なにもしていないのに……
 街も人も呑み込まれ、こなごなに砕け散っていく。
 どうか殺さないで……
 その願いは聞き入れられない。もう遅い。彼らは目覚めた。すべてが手遅れだ。ぼくはなにもできずに立ちすくむ。世界もぼくも死ぬ運命なのだ。
 痺れるような恐怖と絶望に、ぼくは立ちすくんでいる。
 そして―――



 目覚めると暗い天井を見上げたまま、しばらく自分の心臓の狂ったような鼓動を聞いていた。
 起き上がると首のまわりや背中がじっとりと汗ばんでいる。ベッドサイドのデジタル時計は午前三時過ぎを示していた。夜明けまではまだ間があるけれど、もうとても眠れそうにない。
 ぼくはベッドから降りてバスルームに向かった。熱いシャワーを浴びて、まだぼんやりと残っている嫌な夢の余韻を追い出す。タオルで体を拭き、着替えるとベランダに出てみた。
 街は静かに眠っていた。ビルやマンションの屋根の連なりが、落ち着いた暖かい毛布のような夜のとばりに包まれてひっそりと眠りについている。
 月のない、なんだか甘い匂いのするような春の夜だった。
 桜が咲いているせいかもしれない。近くに公園があって、満開を過ぎた桜が風に惜しげもなく花びらを散らしている。街灯に照らされて踊るように舞うそれは、白い雪のようにも見えた。
 誰も見てはいないだろうに、遠くの交差点で眠ることのない孤独な信号が赤から青へと変わる。真夜中の信号の色はハッとするほど綺麗だった。
 あの破滅の夢をいつ頃から見るようになったのか、ぼくは憶えていない。幼い頃から繰り返し繰り返し、見続けている幻影だ。
 子供の頃はその幻影がもたらす恐怖を冷静に受けとめることは困難だった。ぼくは夢に怯え、眠ることに、夜の夢に怯えた。そして周囲にはぼくの訴えに真剣に耳を傾けてくれる人はいなかった。大人たちは子供の頃は誰もがそんな夢を見るものだよ、と言って取り合ってはくれなかった。
 ぼくは早い時期に自分は誰からも理解されることのない存在で、一人きりでこれと戦っていかなければならないのだということを悟った。
 そして成長するにつれ、あれはただの夢で―――忘れかけているとまた突然襲いかかってきて、ぼくを打ちのめされたような気分にさせるけれど―――結局はただの悪夢でしかないと自分を納得させる方法をおぼえた。
 その頃になるとぼくは自分の様々な能力に目覚めてもいた。すなわち、どんなスポーツであれ、ぼくは自分が専攻する科目や種目で本気を出せば難なくトップの成績を修めることが出来る、というような事だ。
 何をやってもぼくに敵うものなどいない。
 だが……いつの頃からか、再びあの幻影がぼくの背後からそっと忍び寄るようになっていた。
 子供のころに取りつかれた戦慄が比べものにならない程の鮮明な現実感を伴って甦り、逃れようとするぼくの手をぐっと掴んでいる。
 最近では夜の夢だけではなく、白昼にさえフッとそのイメージに襲われることもある。これは夢なのだと自分に言い聞かせることもままならなくなってきた。
 そして―――
 ベランダの手すりにもたれ、闇にくっきりと浮かぶ信号のライトを見つめながらぼくは考えていた。
 最近、夢の終わりに決まってある人が現れるのだ。
 声に振り向くと、いつもそこにその人はいる。
 あれは、誰だ?
 なぜ知り合いでもなく、会ったこともない人が繰り返し夢に出てくるのだろう。
 不思議なことに、夢の中のぼくはその人を知っている。声も顔もあたりまえの様に知っていて、それどころかその人がぼくにとって唯一無二の存在であるとさえ感じている。
 だがいったん目が覚めてしまうと―――
 たった今見ていたその人の顔が、もう思い出せない。声がどんな響きを帯びていたのか、何を話していたのかも分からない。
 今もそうだった。目の覚める直前まで、その人はぼくの夢の中にいた。でももうその人の顔も声も、すっぽりと記憶から抜け落ちている。その姿は淡いブルーの霧の向こうでぼんやりと霞んでいる。
 馬鹿らしい、どうして思い出せないんだろう。
 それにどうして、思い出すことがひどく大事なことに思えるのだろう。
 夢を見るたび何かしなくてはならないような気分になる……すごく急かされているような、すごく大事な約束を抱えているような……。
 また、風が吹いた。遠くで桜の花びらが舞う。
 何かがぼくにこう告げている。
 覚醒の時が迫っているのだ、と。
 風に揺られた木々がザワザワと不穏な音を鳴らし、それはぼくの内側で血が騒ぐ音と共鳴した。
 ぼくは部屋に戻り、窓を閉めて鍵をかけ、子供の頃毎晩必ずそうしていたようにカーテンをしっかり閉じた。
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